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20周年のデイ銭湯。施浴の歴史と変遷について語ります。
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白隠禅師法要の最中の妙心寺に明智風呂を見に行きました。

 明智風呂とは、太嶺院密宗が明智光秀の菩提を弔うために創建した浴室、本能寺の変の5年後でもあり、当初は小規模なものでしたが、徳川の時代になると、家光の乳母となった春日局が開浴を知らせるの鐘を寄進建立します。春日局は斎藤ふくといい、父の斎藤利三は明智光秀の筆頭家老でしたが、本能寺の変ののち捕えられ六条河原で斬首されています。春日の局の死後の1656年、光秀縁故の寄進により現存の浴室に建て替えられました。
 当初の光秀命日の13日、月1回の開浴でしたが、その後、塔頭が増えたこともあり、4と9の付く日の開浴となり、重要文化財に指定された昭和2年まで使われていました。また施浴は、薪または薪代の寄進により、四九日以外の故人の命日などに行われ、不定期なものであったようです。
 屋外の井戸で汲まれた水は石樋で屋内の水槽に給水されます。水槽の向かいに鉄湯釜が2基並びますが、1基は室下の鉄湯釜の給湯用、もう1基は上がり湯用として使われていたようです。鉄湯釜は室の下の竃にもう1基あり、その鉄湯釜の蒸気を室に満たしました。竃はどれも石製です。入浴時間は長い線香が燃え尽きるまでの20分程度、室には浴衣を着て入り、1人が使える湯の量は湯桶に3杯と決められていたそうです。

 見学者が他にいなかったことも、11時を過ぎていたのに玄関の鍵が内側からかかったままで、井戸のある庭から入ることになったのも幸いでした。
 明智風呂を見学後、法堂で執り行われている法要を見学、終了後、花園大学博物館で開催中の白隠展に足を伸ばしました。それにしても、湯水を使う浴室が大きな改修もなく270年使われ続け、その後90年経っているとは思えない保存状態には驚きました。
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