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20周年のデイ銭湯。施浴の歴史と変遷について語ります。
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明日香村の川原寺鉄釜鋳造遺構に行ってきました。遺構に至る案内板もなく、川原寺の北限というキーワードがなければ見過ごすところでした。鋳造遺構はこの遺構の上に奈良時代の遺構が発見されていることから7世紀末まで遡る最古の鉄釜鋳造遺構です。発見された鋳型は直径が90㎝あり、調理用としては大きすぎることから、蒸風呂用と考えられています。
 
 飛鳥川を挟んで真西に新しい建物があったのですが、橋がないので、かなり大回りしなくてはならなりません。近年に見つかった苑池跡で、復元整備するらしく、休憩所とトイレは先行で完成していました。
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寺院に付随する湯屋浴室を調べる中で、2003年に向日市で最古の湯屋遺構が発見された記事をみつけました。秋口に現地を訪れたのですが、あいにく向日市埋蔵文化財センターは休日、埋め戻された発掘現場を訪れ、文化資料館で報告書に目を通して帰りました。
 年明けの6日に、やっと埋蔵文化財センターを訪れ、梅本康広氏にお話を伺うことがことができました。
 宝菩提院・願徳寺廃寺湯屋跡の報告書が出てまもなく、和歌山でさらに時代を遡る湯屋遺構が発見されたそうです。というても、現在のところ、平安中期より遡る遺構はないとのこと。奈良時代の「資材帳」には湯屋浴室および湯釜が多数掲載されているものの、古代寺院の伽藍配置における湯屋浴室の場所が主要建物からかなり離れているため、発掘調査区域に含まれないということが未発見の理由として大きいようです。向日市で発見された宝菩提院・願徳寺廃寺の湯屋跡は、埋め戻し保存となったそうですが、遺跡の下層にも焼け跡が認められ、遺構保存のためそれ以上は掘らなかったものの、同じあるいは近い場所に立て替えられた可能性もあるとのことでした。

梅本康広『古代・中世寺院の浴室構造とその変遷』(2013)
施浴とは

 貧しい人々や病に苦しむ人々に温浴を施すこと。湯施行ともいう。

 現代風に言えば浴場提供と入浴介助です。佛教の隆盛に伴い奈良の大寺院には施浴のための蒸風呂が造られました。湯船を増設し大湯屋とした寺院もあります。
 光明皇后の千人施浴あるいは行基菩薩や弘法大師の温泉開湯伝説は温浴の効用とともに伝えられ、平安末期から鎌倉にかけて、重源、叡尊、忍性、一遍といった高僧が施浴を行いました。また、源頼朝が後白河法皇追福のため、百人百日間の施浴を行ったとの記録も残っています。
 明治まで寺社の浴室湯屋では宗派を問わず月一回から数回、大乗佛教の利他行としての施浴が行われていたのです。

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